島津義弘の愛馬である膝跪騂(ひざつきくりげ)の墓は、
鹿児島県姶良市帖佐にある亀仙院墓地にある。その右には石碑が建立されている。
そにによれば、この墓は種子島伊時が宝永4年(1707年)に郡県視察の際にこの地を訪れ、墓の傷みが激しいので、新しく立て直し、膝跪騂の由来を記した撰文を亀仙院に与えたという。
そして、安永6年(1777年)に種子島伊時の撰文を石碑に刻んだ。
ひざつきくりげの由来は、元亀3年(1572年)の木崎原の戦いにおいて、島津義弘が伊東氏家臣と戦った際に、愛馬が膝を折って主人を助けたため、以後「膝跪騂」と名付けられたという。

この馬は牝馬であり、騂は赤茶色、つまり栗毛色のことである。膝跪騂はその後も義弘愛用の名馬として各地の戦に従軍し、
長命であったという。昔は春を告げる初午祭の時、帖佐の人々は旧暦正月十九日に馬頭観音の代わりにこの墓へ詣でたという。
墓の東側には、馬の飼育係りであった橋口対馬の夫婦墓がある。(飼育係の御夫婦のお墓よりひざつきくりげのお墓のほうが大きいらしい)
橋口対馬は義弘の家臣として文禄慶長の役や関ヶ原の戦いに従軍し、義弘を守った。慶安2年(1649)に死去した。


さて、茶トラの猫を「ヤス猫」と呼ぶのは鹿児島県と旧薩摩藩都城市(因みに都城は鹿児島弁が通じます)だけらしい。
何故かご存知ですか?島津家十七代当主、島津義弘公は、朝鮮出兵の際に7匹の猫を連れていき、猫の目の瞳孔の開き具合で時刻を推測し作戦を立てたたといわれます。
朝鮮に出征した7匹の猫の一匹は、義弘の次男、久保によって、ヤスと命名されました。
以来この種類の猫を、鹿児島では「ヤス」と呼ぶようになったといわれ、現在もそう呼ばれているそうです。
「お前たち(猫)は戦友だ。丁重に供養しよう」
猫神神社には朝鮮出兵から無事、帰還できた二匹の猫が祀ってあります。
(鹿児島市仙厳園内)
〜島津義弘公という戦国大名について〜
義弘公は伊作・亀丸城にて生を受け青年期を日置・一宇治城で過ごします。義弘公は曹洞宗妙円寺へ参禅する際には、山門へ着くと馬を降り合掌してから、歩いて本堂へ向かったと歴代住職により伝えられています。
そして天文23年(1554年)には岩剣城の戦いで初陣を飾ります。更に300の兵で10倍の兵力であった日向・伊東氏を破り島津義弘公の名を九州全土に知らしめた、元亀3年(1572年)木崎原の戦いは圧巻であります。
その後は兄弟である、義久公・歳久公・家久公と共に幾度となく出陣し、九州統一まであと一歩というところまで活躍します。
その後も慶長3年9月(1598年)朝鮮の役では明・朝鮮連合軍40000(諸説あり)に対し7000の兵で勝利するという快挙を成し遂げ、鬼島津と恐れられ五大老筆頭徳川家康らにも一目置かれる存在となります。
そして慶長5年9月15日(1600年)義弘公最後の戦いとなる関ケ原の戦いが勃発します。後に「島津の退き口」と語り草となる奇跡的な薩摩への生還です。義弘公はこの戦で西軍へ味方した責任をとって桜島に蟄居という形で見せかけだけの家康への恭順の意を示します。
義久公の巧みな外交面での活躍もあって、義弘公はついに許され、西軍参加武将としては異例の処置で薩摩国は安泰となります。
この関ヶ原の戦いの島津義弘公を偲んで始まったのが「妙円寺詣りであります。島津義弘公は慶長9年(1604年)妙円寺を自らの菩提寺と定め500石の寺領を寄進し、妙円寺は藩内有数の禅寺となります。
妙円寺詣りは江戸末期でも続き平成31年(2018年)NHK大河ドラマ「西郷どん」では西郷隆盛・大久保利通らも参拝したと放映されました。
また、幾度となく出陣し生涯命を落とさなかった義弘公の武運にあやかりたいと、薩摩の留学生が英国へ渡航する際に無事に帰ってこれるように皆で妙円寺に立ち寄り、安全祈願してから串木野の港に渡ったということであります。
慈悲深き鬼とも呼ばれる島津義弘公は、戦国の世に命を落とした敵方の兵の供養塔を建てたり、愛馬の墓や猫を祀る神社を建てたりと、その慈愛の精神も全国で慕われている証なのです。
〜春秋の 花も紅葉も とどまらず 人も空しき 関路なりけり〜
明日は自分が死ぬかもしれないという戦国時代では希少な動物愛。愛馬のお墓や猫を祀る神社を建てようという、
島津義弘公の動物愛護精神は、この生命を軽視する現代社会ではなお、もっと語り継がれてよいはずである。
※愛馬ひざつきくりげのお墓や、仙厳園の猫神神社にも見られる島津義弘公の動物愛。ペット霊園の始祖的存在ですね。
我々は島津義弘公菩提寺菩提寺職員。のこの精神を受け継ぎ、慈愛の丘 とそ動物霊園はペットと呼ばれる命たちの最後のお別れを大切に、していかなければなりません。
