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人も動物も大切に供養した「島津義弘公」菩提寺 妙圓寺 慈愛の丘 とそ動物霊園で後悔しないペットちゃんとのお別れを…

1. 愛馬「膝跪騂(ひざつきくりげ)」の忠義と墓

義弘の愛馬「膝跪騂(ひざつきくりげ)」は、1572年の木崎原の戦いで、義弘が敵の猛攻を受けた際に膝をついて彼を守ったことで名を残しています。

「膝跪」とは「膝をつく」という意味であり、「騂」は赤茶色の馬を指します。つまり、この馬は赤茶色の毛並みを持つ牝馬でした。

以後、義弘はこの馬を大切にし、数々の戦場をともに駆け抜けました。

この忠義深き愛馬の墓は、鹿児島県姶良市帖佐の亀仙院跡にあり、墓の右には種子島伊時によって建立された石碑が残っています。

また、墓東側には、この馬の世話をしていた義弘の家来・橋口対馬とその妻の墓も並んでいます。

橋口対馬は義弘とともに文禄・慶長の役や関ヶ原の戦いにも従軍し、義弘の忠実な家来として活躍しました。

かつて、帖佐の人々は旧暦正月十九日に馬頭観音としてこの墓を訪れ、春の訪れとともに祈りを捧げていました。


2. 鹿児島に伝わる「ヤス猫」――戦場に赴いた猫たち

鹿児島県や旧薩摩藩領では茶トラの猫を「ヤス猫」と呼びます。

この呼び名の由来は、義弘が朝鮮出兵(文禄・慶長の役)の際、7匹の猫を連れていったことにあります。

彼は猫の瞳孔の開き具合で時刻を判断し、軍の作戦を立てたとされています。

この7匹のうちの1匹を、義弘の次男・久保が「ヤス」と名付けました。

それ以来、鹿児島では茶トラの猫を「ヤス」と呼ぶ風習が生まれたといわれています。

鹿児島市の仙厳園には、出征した7匹のうち、無事に帰還できた2匹の猫を祀る祠があります。

義弘は猫たちに向かって、「お前たちは戦友だ。丁重に供養しよう」と語り、その霊を弔いました。

この逸話は、義弘が単なる猛将ではなく、命あるものすべてに対して敬意を払う人物だったことを示しています。


3. 戦国の猛将・島津義弘の生涯

義弘は1535年、伊作・亀丸城(現在の鹿児島県日置市)で生まれ、青年期を伊集院・一宇治城で過ごしました。

彼は曹洞宗・妙円寺に参禅する際、必ず山門で馬を降り、合掌してから本堂へ向かったと伝えられています。

1554年、岩剣城の戦いで初陣を飾り、1572年の木崎原の戦いでは、300の兵で10倍の兵力を誇る伊東軍を破るという偉業を達成しました。

この戦いで彼の名は九州全土に轟き、「鬼島津」の異名をとることになります。

その後、兄・義久、弟・歳久、家久とともに幾度となく戦い、九州統一まであと一歩というところまで活躍しました。

1598年、朝鮮の役では、明・朝鮮連合軍40,000(諸説あり)に対し、わずか7,000の兵で勝利するという快挙を成し遂げました。

この勇猛果敢な戦いぶりにより、義弘は五大老筆頭・徳川家康にも一目置かれる存在となります。

そして1600年、関ヶ原の戦いが勃発。

義弘は西軍に属しましたが、戦況が不利になると、自軍約1,000騎で敵中突破を敢行し、奇跡的に薩摩へ帰還しました。

この戦いは「島津の退き口」として語り草となっています。


4. 一途な愛妻家としての義弘

義弘は側室を持たず、正室の**実窓夫人(宰相殿)**だけを生涯愛しました。

これは戦国武将としては非常に珍しいことです。

ある日、鹿児島市小野町の小野村で大根を洗っている美しい女性と出会い、思わず「私にその大根を一本もらえませんか」と声をかけました。

その女性こそが園田清左衛門の娘・実窓夫人であり、これがきっかけで二人は結ばれました。

朝鮮出兵の際、実窓夫人は伏見城に人質として送られましたが、義弘は彼女にラブレターを送りました。

「私が海を渡ることよりも、旅慣れないあなたのことが心配です。朝も夜も、あなたのことを思っています。」

さらに、戦場からの手紙にはこう綴られていました。

「実窓、お元気ですか。今夜も夢であなたに会いました。ずっとそばにいるような気がします。しばらく会えないのが嘘のようだ。どんなことでもいい、返事をください。」

義弘の死後、妙円寺には実窓夫人を弔う**「芳真軒」**という庵が建てられ、現在も夫婦の位牌が並んでいます。

「浮気はしない。君だけを愛する。死んでからも一緒だ」

戦国武将としての勇猛さだけでなく、こんなロマンチックな一面を持つ義弘の姿に、多くの女性ファンが惹かれ続けています。


5.薩摩藩英国留学生と妙円寺の御守りの関係

「妙圓寺で安全祈願してから行こうよ!」

幾度となく出陣し生涯命を落とさなかった義弘公の武運にあやかりたいと、

薩摩藩の英国留学生たちがイギリスへ出発する際、島津義弘公の「妙円寺の御守り」を手にしてから串木野の港より旅立ったという逸話があります。

これは、「義弘公のようにどんな困難にも屈せず、使命を果たして必ず無事に帰る」という精神的な支えとして、御守りを持って行ったという意味合いがあります。つまり、薩摩武士としての誇りと不屈の精神を忘れるな、というメッセージだったわけです。

実際この御守りを手に、彼らはイギリスへの留学後、まさに「命がけの敵中突破」さながらの大事業に挑んだのです。

義弘公の精神は、幕末の近代化を担う薩摩の若者たちにも継承されていたんですね。


6. 慈悲深き鬼――島津義弘の遺した精神

義弘は、戦で亡くなった兵士たちのために敵味方の供養塔(島津六地蔵塔)を建てるなど、深い慈悲の心を持っていました。

また、愛馬や愛猫の墓を建てるなど、戦国時代において希少な動物愛護の精神を持つ武将でもありました

「命を大切にする心」――それこそが、彼が後世に残した最大の遺産なのかもしれません。

 

 

―妙円寺 慈愛の丘 とそ動物霊園は島津義弘公の意志を継ぐ動物霊園です―

 

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代表 伊藤憲秀/@kensyu_ito