人も動物も大切に供養した「島津義弘公」菩提寺 妙圓寺 慈愛の丘 とそ動物霊園で後悔しないペットちゃんとのお別れを…
1. 愛馬「膝跪騂(ひざつきくりげ)」の忠義と墓
義弘の愛馬「膝跪騂(ひざつきくりげ)」は、
「膝跪」とは「膝をつく」という意味であり、「騂」
以後、義弘はこの馬を大切にし、
この忠義深き愛馬の墓は、鹿児島県姶良市帖佐の亀仙院跡にあり、
また、墓東側には、この馬の世話をしていた義弘の家来・
橋口対馬は義弘とともに文禄・
かつて、
2. 鹿児島に伝わる「ヤス猫」――戦場に赴いた猫たち
鹿児島県や旧薩摩藩領では茶トラの猫を「ヤス猫」と呼びます。
この呼び名の由来は、義弘が朝鮮出兵(文禄・慶長の役)の際、
彼は猫の瞳孔の開き具合で時刻を判断し、
この7匹のうちの1匹を、義弘の次男・久保が「ヤス」
それ以来、鹿児島では茶トラの猫を「ヤス」
鹿児島市の仙厳園には、出征した7匹のうち、
義弘は猫たちに向かって、「お前たちは戦友だ。
この逸話は、義弘が単なる猛将ではなく、
3. 戦国の猛将・島津義弘の生涯
義弘は1535年、伊作・亀丸城(現在の鹿児島県日置市)
彼は曹洞宗・妙円寺に参禅する際、必ず山門で馬を降り、
1554年、岩剣城の戦いで初陣を飾り、
この戦いで彼の名は九州全土に轟き、「鬼島津」
その後、兄・義久、弟・歳久、家久とともに幾度となく戦い、
1598年、朝鮮の役では、明・朝鮮連合軍40,000(
この勇猛果敢な戦いぶりにより、義弘は五大老筆頭・
そして1600年、関ヶ原の戦いが勃発。
義弘は西軍に属しましたが、戦況が不利になると、自軍約1,
この戦いは「島津の退き口」として語り草となっています。
4. 一途な愛妻家としての義弘
義弘は側室を持たず、正室の**実窓夫人(宰相殿)**
これは戦国武将としては非常に珍しいことです。
ある日、
その女性こそが園田清左衛門の娘・実窓夫人であり、
朝鮮出兵の際、実窓夫人は伏見城に人質として送られましたが、
「私が海を渡ることよりも、旅慣れないあなたのことが心配です。
朝も夜も、あなたのことを思っています。」
さらに、戦場からの手紙にはこう綴られていました。
「実窓、お元気ですか。今夜も夢であなたに会いました。
ずっとそばにいるような気がします。 しばらく会えないのが嘘のようだ。どんなことでもいい、 返事をください。」
義弘の死後、妙円寺には実窓夫人を弔う**「芳真軒」**
「浮気はしない。君だけを愛する。死んでからも一緒だ」
戦国武将としての勇猛さだけでなく、
5.薩摩藩英国留学生と妙円寺の御守りの関係
「妙圓寺で安全祈願してから行こうよ!」
幾度となく出陣し生涯命を落とさなかった義弘公の武運にあやかりたいと、
薩摩藩の英国留学生たちがイギリスへ出発する際、島津義弘公の「妙円寺の御守り」を手にしてから串木野の港より旅立ったという逸話があります。
これは、「義弘公のようにどんな困難にも屈せず、使命を果たして必ず無事に帰る」という精神的な支えとして、御守りを持って行ったという意味合いがあります。つまり、薩摩武士としての誇りと不屈の精神を忘れるな、というメッセージだったわけです。
実際この御守りを手に、彼らはイギリスへの留学後、まさに「命がけの敵中突破」さながらの大事業に挑んだのです。
義弘公の精神は、幕末の近代化を担う薩摩の若者たちにも継承されていたんですね。
6. 慈悲深き鬼――島津義弘の遺した精神
義弘は、戦で亡くなった兵士たちのために敵味方の供養塔(
また、愛馬や愛猫の墓を建てるなど、
「命を大切にする心」――それこそが、
―妙円寺 慈愛の丘 とそ動物霊園は島津義弘公の意志を継ぐ動物霊園です―
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代表 伊藤憲秀/@kensyu_ito