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猫は悩まない。〜板橋興宗禅師〜

「ねこでらの和尚さん」でおなじみ!

今日は元曹洞宗管長・御誕生寺ご住職 板橋興宗禅師の、「心配しなさんな。悩みはいつか 消えるもの」

からの猫に学ぶ生き方をご紹介いたします。(掲載に関しては、事前に電話にて許可を頂いております。)

日置市の法智山妙円寺にもたくさん猫がいますし、鹿児島市唐湊の慈愛の丘とそ動物霊園にもゴン太くんやミーコちゃんがいます。(にゃんこ続々紹介予定)

 

 猫は悩まない。

いま、御誕生寺には三十匹ほどの猫がいます。元来猫好きで、どこからともなくやってきた捨て猫や迷い猫に餌をあげたりしているうちに、いつのまにか数が増えました。いまでは「猫寺」と呼ばれるようになり、休日ともなれば、おおぜいの方がたずねてこられます。

もちろん、人気なのは、住職の私ではなく猫たちです。ただダラーンと寝ているだけで「かわいい」などと褒められるのですから、いい気なもの。お客さまがきたからといって、よそゆきの態度をするでもなし。いつものようにのんびり勝手気ままにやっているようです。

そんな猫たちを見て、「いいなぁ、悩みがなくて」とうらやましく思われている方もいらっしゃるのではないですか。まことにその通り、猫は悩まないのです。生きとし生けるものもののなかで人間だけが複雑な「言葉」を覚えました。

言葉を覚えたから、考えるという脳の働きが生まれ「あーでもない、こーでもない」と悩むクセがついてしまったのです。猫には言葉はありません。ニャァとは鳴きますが、それは「エサをくれ」「外に出してくれ」などのただの合図にすぎません。あるいは、猫同士だけに通じる、何かの情報交換のシグナルかもしれません。言葉がないから、風にチリリンと揺れる風鈴のごとし、ただその場その場の身体感覚ののままに生きているのです。

夏の暑い日は、ヒンヤリした廊下にペタンとのびているし、寒くなればまだ暖かい車のボンネットの上に、ちゃっかり丸まっています。座布団をくわえてきて、その上に寝るような賢さはありません。そこまで知恵を回して安楽を求めなくても、すでに足りているからです。

「山川草木悉皆成仏」(さんせんそうもくしっかいじょうぶつ)という言葉があります。自然万物に八百万の神が宿ると考える日本人は山や川のような大地や、草や木のような植物もまた“仏の化身”だととらえています。生まれながらに「足るを知る」猫もまた、仏さんのようなものではないでしょうか。

お釈迦様や道元禅師は厳しい修行の末に「ありのままでいいのだ」と気づかれました。その日そのとき「いま」を生きる。いま見えていること、聞こえていること、感じていること。それがすべてだと悟ったのです。

修行もしていないのに猫はいまを生きています。「あのときエサを残すんじなかった」などと、過去を悔やみません。「明日の食べ物があるかなぁ」などと、未来を憂いません。言葉のない彼らには、昨日や今日、明日などの時間の概念もないからです。

猫たちを見ているとつくづく思います。「山川草木すべてを見渡しても、ぐだぐだと悩んでいるのは人間だけだなぁ」と。

さて、いま、私の寺でいちばん古いのは、レオという名の猫です。レオは他の猫たちに比べて、一匹で行動するタイプ。早朝の読経のとき、本堂の扉を開けておくと、決まってレオだけが入ってきて、まっしぐらに私のところへかけ寄ってきます。よっぽど読経の響きが好きなのか、そのままひざに乗って離れないのです。

頭をぐりぐりこすりつけて法衣に目ヤニをひっつけることもこともあれば、ひざにいるのに飽きて、肩までよじのぼってくることもあります。何をされても読経を続けるのは、なかなかの難儀です。

「よし、よし。よっぽど私のことが好きらしい」あとで頭をなでてあげようと思うのですが、レオはつれなくスッと本堂から出ていってしまいます。境内で見かけたときも、抱きかかえようとすればニャオンと逃げ去ってしまいます。読経中はあんなに甘えてきたのが、うそのようです。

レオは、ただその瞬間、瞬間を、自由に心のままに生きているのです。人間のように、誰かに「好かれよう」「かわいがってもらったほうが得」などという思惑や計算はまったくありません。

レオもまた「いま」を生きる「ほとけ」さんなのです。

 

 

(※画像は御誕生寺様の猫ではなく、妙圓寺の猫です。板橋禅師、有り難いお話をありがとうございます。)日々の暮らしの中でペットと呼ばれる命たちから教えられることが多いですね。これからも慈愛の丘とそ動物霊園は全国1万5000カ寺を有に超える曹洞宗・法智山妙円寺付属の動物霊園としてご遺族の心に寄り添い和顔愛語の精神で精進してまいります。

 

 慈愛の丘 とそ動物霊園

   代表 伊藤憲秀